ソウル界の重鎮、ドン勝本氏

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第5話、日本のソウルシーンを牽引したソウル界の重鎮、ドン勝本氏のお話です。

私がドン勝本氏を知ったのは、六本木の”エンバシー”に行っていた頃からだいぶ時間が経ったころ、とんねるずのテレビ番組でした。

私がエンバシーに通っていた頃はあまり興味がありませんでしたが、 六本木でブラックミュージックを聴き、踊りに興味が湧いてくると、「いかに黒っぽく踊れるか」。その先に六本木のエンバシーがありました。

エンバシーは、かつて”大統領”という名前で、のちにエンバシーになり、ドン勝本はそこの店長でした。とにかく始めの印象は、店内が暗く狭く黒人がほとんどで、ブラザーにぶらさかる女性が多かったです。始めて行った時に気楽に女性をナンパした時、黒人に鋭い目つきでガンつけられた事をよく覚えています(笑)

ダンスフロアーも狭く、確か壁はミラーになっていてそこに映る黒人の目や歯がやたら白いのには驚かされました。
ドン勝本氏は、そこの店長、日本のソウルシーンを牽引した人物でもあります。
ブラックミュージックや日本のディスコシーンに多大な影響を与えた人物である事をのちに知ることになりました。

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ドン勝本氏がソウルミュージックに魅せられるまで

・生まれは1949年5月20日岐阜県生まれ。
・国士舘在学中から新宿のディスコに出入りする様になる。
・そこで流れている、ジェームス ブラウンやR&B、ソウルミュージックに魅せられて、その後1973年2月にジェームス ブラウンが初来日する際、ライブ後に彼の楽屋で初めて会い、意気投合する。

この時の勝本氏が、日本のソウルミュージックが盛り上がってないことを嘆いた所、ジェームス ブラウンから「俺はアメリカで頑張るからお前は日本ソウルミュージックの普及に頑張れ。」と言われとても感動してたそうです。

以来ジェームス ブラウンを師、神、と仰ぎ日本のソウルミュージック普及に尽力しました。
翌年1973年に始め渡米してアメリカのディスコシーンをつぶさに視察しました。それを受けて1974年に日本のディスコシーンに横のつながりがないことに気づき、ディスコを組織化して全国ディスコ協会を設立して会長に就任しました。
ディスコ協会では全国にDJを派遣したり、全国規模のダンスコンテストを多数行い、ディスコシーンの啓蒙活動に尽力しました。

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マンハッタンをオープンさせる

1978年、赤坂にディスコ”マンハッタン”をオープンします。
ここのオーナーが細木数子女史でした。その同じ年に日本で始めのディスコ情報誌「エクス プロージョン」を発行したのでした。懐かしいですね。

さらにこの頃までに何度か渡米してアメリカのソウルシーン、ディスコシーンを見聞し、日本ディスコ会議を企画。
1978年8月、帝国ホテルで全国ディスコフォーラムを開催し、アメリカからディスコDJリッチー・リヴェラを招聘し日本のディスコ発展に寄与しました。

また、自身もダンサーとしても活躍し、オリジナルステップを考案、振付師として自ら育てた「歌って踊れるグループ」であるリフ、ラフをデビューさせ、そのなかにのちの TRFのSAMがいました。

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ダンステリアをオープンさせる

1984年、白金にディスコ”ダンステリア”をオープン。ソウルステップの総本山的な存在のお店になっています。
また1990年にドン勝本氏は、ニック岡井氏とマイケル鶴岡氏と共にダンスユニットキングオブソウルを結成。歌って踊れるグループとしてメジャーデビューする。また。最近では大人気となったシンガー   AI  (  アイ  )を発掘しメジャーデビューさせるなど、プロデューサーとしても活躍しました。

2006年ソウル、ディスコ、ダンスの歴史を一冊にまとめオール、アバウト、ソウル、ディスコ、ダンスとしてメデイアミル、星雲社として発表しています。

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突然のがん

まだまだ仕事盛りだった57歳の時、彼は直腸がんを患い、短い人生の幕を閉じました。ここに謹んでご冥福をお祈りします。

次の第6話は、六本木インフィニティの店長ニック岡井氏のお話です。
日本にソウルとステップチャチャを広めた人物で(  クック、ニックandチャッキー  )のお話です。

キングオブソウル時代のドン勝本氏の貴重な映像です。

[arve url=”https://www.youtube.com/watch?v=jzI7IXNI210″]

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