我が青春のグラフィティ – 六本木の夜を作った日新物産の池口麗子女史 – 

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落ちこぼれ社長奮闘記の吉野です。
ここしばらく記事の更新が滞りすみません!
だいぶさぼりました。
今日から私の商売の原点となるお話を10本程記事にします。
タイトルは、「我が青春のグラフィティ」
サブタイトルが、「六本木の夜を作った紳士淑女」です。
今日はその1本目、トップバッター、日新物産の池口麗子女史のお話です。
彼女は、新宿・六本木と幅広くディスコを経営していました。
時は1978年頃。当時無名のジョン・トラボルタがディスコ映画「サタデー・ナイト・フィーバー」で一役スターダムにのし上がりました。。。

 

興味がある方はレンタルして下さい。
話がだいぶ横にそれましたので、、、(笑)
早速本題のテーマのお話しを書きたいと思います。
私もこの映画を見てディスコに興味をもち、それから20年位夜な夜な六本木や赤坂、新宿を遊び歩くようになりました。
私は20歳の時に初めて、六本木に勤めていたオバにディスコへ連れて行ってもらいました。そこは、当時六本木のランドマーク的な存在 ー スクエアビル9Fのフーフーというディスコでした。そこではおしゃれなモデルや外人の紳士淑女達がまばゆいライトと大音響の中で踊っていました。
余りにも異次元の世界で、とてもカルチャーショックを受けたことを今でも鮮明に覚えています。そこから私もディスコの熱に侵され、20年位ナイトレジャーフリークでした。
その当時六本木には、大小合わせ20以上のディスコがあり、その中で会員制ディスコを除くほとんどのディスコへ足を運びました。その中に日新物産系列である池口麗子女史のお店がありました。
強烈なのがディスコのランドマーク的なスクエアビルの地下にできた、会員制ディスコです。キャステルを始めて仕掛けたのが池口麗子女史と知ったのはだいぶ時が流れてました。
キャステルは六本木の遊び人にとっては憧れのディスコで、自分も早くそこにいける様にだいぶ背伸びをしていた記憶があります。しかしキャステルはある事件があり、のちに伝説のディスコになりました。その後にできた玉椿はガールフレンドと行きました。
ここで一つのエピソードを紹介します。
ある日、いつもにはないくらい、玉椿のボーイが慌ただしく動き回っていました。暇になった頃に何かあったのかを聞くと、「会長が来店するという情報が入ったからトイレと入り口とフロントの清掃をしていた。」と、息を切らして言ってました。黒服などの幹部もピリピリしていましたが結局会長は来ませんでした。
そんなにピリピリするのかと思い、詳しく話を聞くと、会長は女性で新宿と六本木にディスコを20店舗程を持っていると言ってました。さらに、店長はいい男が条件で、売り上げノルマを達成するとボーナスで500万から1000万が出るということも知りました。
彼から聞く話が、聞く話が余りにも世間と掛け離れていたためにただただ驚きの連続でした。
そこで凄い大金が動く様を見て、ナイトレジャーに興味を持ちました。そしてこの女性実業家に興味をもち、その店舗をいくっか回ってみました。特にギゼと言う3Fに合ったお店は、日本で初めてお立ち台を作ったお店で、さらにディスコに初めて寿司バーを作ったお店でした。
のちにノバ21グループのマハラジャも、レストランや寿司を提供するスタイルとお立ち台を作り、ここがお立ち台の発祥の地の様に言われていますが、初めは日新物産のギゼが一番最初でした。
ちょうどその頃、日新物産が六本木のナイトシーンを牽引して行く事になります。
次は社会的現象にもなったマハラジャを作った、ノバ21グループの管野諒社長のお話しを書きたいと思います。

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