【成田勝】マハラジャを牽引した男【懐かしき80年代シリーズ】

 

懐かしき80年代

マハラジャをリアルタイムで経験した世代は、おそらく40代から50代の方達でしょう。ちなみに私はドンピシャの世代です(笑)

最近はマハラジャが大阪で復活して、その時代を懐かしむ人達で繁盛しているそうですね。私の記憶が正しければ、マハラジャは、1984年に麻布十番に突如として現れた、憧れのお店でした。入り口がド派手なネオンで装飾され、ショーウィンドーの様な形でBMが飾ってある。入り口のネオンだけで十分高級感がありましたが、そのBMがより一層、ラグジュアリーな演出に一役買っていました。
後でこの車は、マハラジャと関係ないと知ったのですが(笑)

 

今までのディスコとは一線を画す内装

マハラジャは、その外装のみならず、内装も素晴らしいものでした。王朝風の大理石に大きな鏡、真鍮(シンジュ)を至る所に使い、踊り場の入り口には象牙のモチーフがありました。絢爛豪華なこの内装は、今でも記憶に残っています。特にトイレが綺麗でしたね。成金趣味のように感じる方もいたかもしれませんが、私はこの雰囲気が大好きでした。
そういえばこんな思い出も。ある日、フライデーかフォーカスか、どの雑誌取り上げられていたかは忘れましたが、「六本木のマハラジャを仕切る青年社長」のよう見出しの記事で、紙面を2枚以上使った特集を見つけました。私より1歳年下の青年社長が何でこんなお店を持てるのか、と嫉妬しました。さらに彼は、身長180センチ以上、甘いマスクの持ち主で、まるでホストのような風貌。身長160センチ代、小太りの私とは大違いです(笑)実際にお会いしたこともあるのですが、私とはまるで違う、オーラをまとった方でした。

 

マハラジャ旋風が巻き起こる、成田氏のファーストキャリア

ある時期からか、テレビやマスコミでマハラジャがよく取り上げられるようになりました。このマハラジャブームを牽引した人物が成田勝氏でした。
成田氏は、歌手を夢見て兵庫から上京した、いたって普通の青年でした。平尾昌晃氏に師事して歌手の勉強を始めましたが、結局断念。お金も無かった成田氏は、平尾昌晃氏プロデュースのお店、六本木スパッツで働き始めます。
実はそのお店がノバ21グループの系列店で後のキャリアに大きな影響を与えるのでした。数年後、ノバ21グループの管野社長に抜擢され、成田氏は六本木マハラジャの社長としてデビュー。その間にどんなことがあったのか、私は知る由もありませんが、黒服としての仕事ぶりが認められたのでしょう。歌手を目指して上京した青年は、夜の世界に魅せられ、翻弄され、それでも這い上がろうと努力したのでしょう。その結果成田氏はマハラジャの社長にまで上り詰めたのです。

 

エピソード

社長になるきっかけを与えてくれた、管野社長。彼は成田氏を熊本のマハラジャへ連れて行き、直接社長になるよう誘ったのだとか。こうして成田勝氏は、六本木マハラジャの代表になることを決断したそうです。

六本木マハラジャを始めるにあたり、総工費は約5億。普通なら金額を聞いただけで心が折れてしまいそうですが、成田氏は違いました。とても大きな金額でしたが、あっという間に資金回収をして見せました。この成功経験を生かし、マハラジャイースト、マハラジャウエスト、のちのキングandクイーンのオープンへと繋がっていきました。

 

現在

成田勝氏は、自身の会社を経営しています。東京マハラジャイーストの跡地にプレゴ(イタリアンレストランのお店)、東京マハラジャウェストの跡地に六本木しゃらら亭(カラオケ)を経営しているそうです。

また、今もダンディーな風貌をお持ちのお方です。

次回予告

次は異色の経営者、西村拓郎氏のお話しをします。都心部でパチンコ、スロットを手広く運営している会社の社長、大きい看板が目立つ彼の会社のお話しです。乞うご期待!

成田勝氏、歌手の夢も叶えていましたね。

 

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